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楽譜は歌うもの、から考える言葉 [ロシア語]


 音楽で使う「楽譜」は日本語なら「読む(読み解く)」ものですが、ロシア語では「楽譜(ноты)」は「петь(歌う)」ものです。

 Я пою ноты.
(私は楽譜を歌う)

 ってことになります。感覚として、ソルフェージュ(楽譜の音を声に出して音を取っていく)って感じです。
 ここでね、ロシア語って美しい、って感じたんですよ。
 ものすごい豊かなイメージがわいたんです。
 古くさいと思っていた「楽譜」を愛おしいと感じるような……

 これまで私は「楽譜」は「音楽の設計図」というイメージを持っていたんですけど、実は違うんですね。
 4分の4拍子の時、4分音符は絶対的な音の長さを規定してるのではなくて、そこに書いてあるのは、あくまで「楽譜」という形式で書き留められた断片的な情報でしかないわけです。
 曲調や、解釈、演奏者の表現によってそれは長くも短くもなり得るわけです。
 でも、子供の時は理系少年だった私には判らなかったんです。
 メトロノームのリズムが絶対的なものだと信じ込み、それから外れることはルールから外れることで、美しくないものと言うようなイメージさえ持っていました。MIDIシーケンサで何かの曲を打ち込んでもとてもロボットのような演奏になって、機材のせいなのかと思った事もあるくらいです。今思うとあまりにも滑稽なんですけど……

 それからずっと時間が経って、いろいろと経験する中で、世の中ってルールだとか、原則だとか、そういうことだけじゃなくて、私たちが伝えているもの、残しているもの、記録しているものはあくまでも断片的なものだとという事に思い至るようになって、はじめていろんな事が判るようになりました。(残念ながらそれはここ2年~3年くらいですけど)
 いろんなことがデジタルで処理できるようになって、そこで生まれた情報が絶対的な力を持つ、なんて考える人たちが出てきたような状態で、私がそれに嫌気というか、うさんくささを感じていたというのもあると思います。
 多分、その反動でろくに音譜も読めないのにチェロを習い始めたり、英語なんてろくに判らないのにロシア語を習ったりして、実は「つまんない」と思っていた雰囲気の向こう側には、実はものすごい感動と、輝くような感性を持ったものがいっぱいあることに気づくようになりました。

 私たちは、いろんな事を知ることが出来るようになったのは事実です。でも、「知る機会を得た」を「感覚的に知っていること」は全くの別物には意外と気がつかなかったりします。
 インターネットは便利だし、これがないと仕事でも相当苦労することは判っています。
 でも、その反面、インターネットには載せられないものもいっぱいあることに最近は気づいています。
 数年前の私なら、こんなこと考えもしなかったでしょう。

 現実と、ネットの仮想現実の距離が年々近づいているような感覚をもっている人は多いと思います。
 買い物も出来るし、銀行などの支払いも出来る、各種申請もネットから出来たりもする、人によっては友達も恋人もネットで出来たりする。それは悪い事じゃない。
 でも、ネットと接続してなくとも、簡単に人の人生を変えるくらいの強烈な輝きを放つものが現実に存在している、というのもやっぱりあるんです。ネットの動画や文章だけでは理解できない、強烈なものが。

 話がちょっとそれてしまいました。
 コンピューター的な視点から見た場合、ロシア語は、日本語には出来ない細やかな表現を可能にする記述言語、なんて事を以前書きましたが、最近はまるで「音楽」のようにも感じているんです。
 やはり人間の作るものの「曖昧さ」をたくさん持っています。(一部昔のコンピューターのように、ある特定の拡張領域にあるメモリにアクセスする場合は、特別な処理をする必要がある、なんてイメージにも重なるんですけど)
 でも、それが嫌じゃなくて、なにかこう「許せる」というか「自然に受け入れられる」ような気がしています。
 最初は「この文法ルールがあるのに、なぜこの表現の場合は違うのか?」なんて思いましたけど、もともと言葉ってそういう曖昧さを含んだものだし、コンピューター開発言語のようではない、曲調や演奏者によっていろいろなニュアンスに変化する音楽のようなもの、と受け入れられるようになってからはそういう発想はなくなりました。

 なので、ロシア語のレッスンの時にも以前は先生に「この表現は正しいかどうか」という感じで質問していたのが、今では「このようなニュアンスを伝えたいんですけど、こういう表現でいいんでしょうか?」という感じに変わりました。
で、先生の方も「そういう発想はしません」とか「その表現はないので、近いのはこんな表現です」みたいに教えてくれます。
 やっぱりあるんですよね、一方の言葉にはある概念でも、別の言葉にはない概念って。
 日本語の時刻のように昼12時頃の感覚が11時50分~12時10分ごろの考え方と、ロシア語の「первый час дня」のように12時~12時20分ごろってような似ているけど、実は違う、ってのがあります。(ここから深読みすると、ロシア出身の人に12時頃って伝えてしまうと、待ち合わせ場所に平気で12時20分頃に現れる可能性があったりするかも……)
 それにしても、高校の時には「日本語で表現できるニュアンスは絶対に他の言葉で翻訳出来るはず」って思い込んでいましたけど、それって違うんだなぁ、と今更ながらに思うわけです。

 でも、なんというか、ロシア語を習うことで、こんなにも自分の日本語と外国語についていろいろと考えることになるとは思いもしませんでした。
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